学校、職場、様々なところでドラえもんの話になるものだ。
「もし、ひみつ道具があったら」
「もし、タイムマシーンがあったら」
「もし、どこでもドアがあったら」
「ドラえもんの声はどちらで育った世代か」
それくらいドラえもんというのは日本国民に知られた存在であるし、どんな世代でも話のネタになる。
そんな話になったら僕は必ずこう話したものだ。
「僕は大山のぶ代に抱かれた男だ」
時は1979年1月に遡る。生まれたばかりの自分を両親は川崎大師に連れて行った。いわゆる厄除として有名な寺院は正月ということもあり人でごった返していた。
一通り境内を巡り、そろそろ帰ろうかという頃、両親はトイレに行った。父が私を抱き、母が先にトイレに向かった。母が戻ってきたら父が母に私を渡して父がトイレに向かった。
父がトイレから出て来たとき、一組の夫婦が母のところに寄ってきたという。
「あら、可愛い子。ちょっと抱かせてくださいな」
特徴的な声を持つその婦人と横に立つ男性に目をやると、砂川啓介・大山のぶ代夫妻だったという。
「どうぞ、どうぞ」と母が彼女に私を抱かせた。
「あらー、かわいい子ねえ」としばらく私の顔を覗きながらあやした後、母の腕に戻した。
「ありがとうございました」
そう言って、夫妻はそのまま立ち去ったという。
私はその話を両親から何度も聞かされたものだ。
時は下り、私が高校生くらいになったとき、当時、平日昼帯にやっていた長寿番組を見ていた。平日にやっていた番組だからきっとその日は風邪でもひいて学校を休んでいたのだと思う。
その番組では一般視聴者が出演者に電話相談するというコーナーがあった。毎日日替わりで数名のゲストがおり、その中のひとりに彼女、大山のぶ代氏がいた。
軽い相談から重めの相談まで、日によって異なっていたが、その日の視聴者の女性からの相談は、「子どもを流産し、もう子どもが産めない体になってしまった。これからどうしたらよいか」という相談であった。
泣きながら自分の心情を話す相談者。重い雰囲気が漂っていた。
出演者全体を映すひきの映像になったとき、一人のゲストが座っていた椅子の足の方に頭を下げている様子が見えた。一般募集されていた観覧者たちも少しざわついていたように思う。
色黒の男性司会者が彼女に声をかけた。
「大山さん、お話できますか」
しばらくそのままの体制で動かなかったが、覚悟したかのようにすっと体を起こし、背を伸ばした。泣いていたのが明らかな表情であったが、すぐに何かを振り切るかのような表情を一瞬見せた後、カメラに向かって話し始めた。
「私もね、流産を経験して、二人目の子は生まれてすぐに亡くなってしまったの。それから子どもはいないけれど・・・」
彼女がどんなことを話していたのかは詳細には覚えていない。
「強く生きて、旦那さんがきっとあなたを支えてくれる」
「生きていれば必ず良いことがある」
そんな内容を言っていたように思う。印象的だったのはそのときの表情だ。少し前まで泣いていた人とは思えない、力強い、毅然として優しい表情だった。
後で調べたところ、生まれたばかりの私を抱いたとき、すでに彼女はそれらを経験していたのだ。彼女はどんな気持ちで私を腕の中に抱きしめていたのだろう。
最初のアフレコの後、「ドラえもんはこんな声をしていたんですね」と原作者である藤子・F・不二雄は言ったという。
子どもたちのヒーローであったドラえもん。そのドラえもんが彼女にとっての子どもであり、彼女の支えになってくれていたのなら。
ドラえもんはずっと私のヒーロであり続けているのだと思う。