ある日の朝(最終回)

 新幹線は新大阪までしか運行していなかった。そこから在来線で

確か西宮まで走っていたと思う。

 救援物資が入った、自分の体ほどの大きさのある荷物を誰もが背負い、それぞれの目的地に向かって歩き始める。

 
 駅前の建物は倒壊していなかったものの、ほとんどすべての建物の看板が傾いたり、外れたりしていた。

 さらに歩を進めると右手に小さな交番が見えてきた。その交番を右に曲がると、



 何もなかった。



 その交番を残して、何もなかった。私は歴史の教科書で見た終戦直後の東京を思い出した。


 しかし、余計な感慨に浸っている暇はない。私は歩みを止めることなく歩き続けた。


 そして、おそらく、その後の私の人生に、大きく影響を与えることになる光景を眼にすることになる。


 駅からは相当な人数の人が歩いていた。横浜駅の西口のような感じだった。

ただ違うのは、彼らからまったく声がしないことだった。もちろん私も。

誰も声を発することなく、黙ってそれぞれの道を歩いていた。

静かだった。本当に静かだった。時折、救急車のサイレンが遠くから聞こえるくらいだった。



 1時間くらい歩いたときだったと思う。

 突如として私の耳に人の声が入ってきた。

 それはちょうど、きっと皆さんも覚えているであろう。あの建物を通ったときのことだ。


 10階ほどの高さの建物の4階部分がダルマ落としのようにつぶれた、あの建物だ。

 その建物の前に連中はいた。

 
 奴らは笑っていた。笑いながらマンションを見上げ、マンションに背を向けた正装した2名

の人物に化粧を施していた。彼らも笑っていた。彼らに向かってカメラを向けた人物も。



 「この馬鹿野郎」


 そんな言葉が喉まで、いや口の中にまで出かったが、私は彼らを横目で見ながら前を通り過ぎた。

 後ろを振り向いた。誰も彼もが連中をにらみつけながら、しかしその歩みは全くスピードを変えることなく、

 歩き続けていた。


 私が地震を感じるたびに思い出すのは、その後見た霊安室と化した学校の体育館でも、

(蛇口から水が出ないため)水道局によって意図的に壊された水道管でもなく、

あの連中の顔である。