Blogを書くということ

 Blogを書くということ、個人サイトということ

 上のエルゲラさんのエントリを読んで、自分なりに思うところを書いていきたいと思います。

 趣味、趣向が多様化した現代社会の中で自分と同じ趣味の人をインターネットを通さずに見つけることは、非常に難しくなっていると思います。この趣味の多様化自体もインターネットから始まっています。僕の小学校・中学校時代、つまりインターネットが急速に普及する以前はテレビ・新聞・雑誌の情報がほとんど全てでした。そうした「狭い情報網」に基づいてやり取りされる会話のネタの種類は非常に少ないものだったように思います。

 NHK、民放で放送されるドラマ・スポーツ番組・教養番組・バラエティ番組・・・。新聞欄を見ればかなり多く見えますが、全ての人がその「枠」で満足していたわけではないと思います。そのニーズに応えるためなのか、ニーズを作り出したのかという問題はさておいて、登場してきたのがBS/CSなどの衛星放送、そしてインターネットなのかもしれません。これによるコンテンツの拡大が前述の趣味・趣向の多様化を生み出しました。

 しかし、いくら趣味・趣向が増えても、人間の本質というものは変わらないと思います。人間には「確認欲」というものがあると僕は考えています。自分が感じたことを人も感じたのかということを確認したいという欲求があると思います。わかりにくいので具体例を挙げましょう。

 ご自分の学生時代や電車の中で会話している中高生を想像してください。次のような会話をしたことがあったり、聞いたことはないでしょうか。

A「ねえ。昨日のドラマ見た?」
B「見た見た。○○(俳優の名前)さんカッコイイよねえ」
A「そうそう。あのバイクに乗っているところとか、いいよねえ」
B「そうそう。ホント、かっこいいよねぇ」

あるいは

A「昨日、巨人戦見た?」
B「見たよ。すごいホームランだったよねえ」
A「ああ、高橋のやつでしょ。すごいよねえ」
B「そうだよねえ」

というような会話です。中高生でなくても、社会人でも同じような会話があるでしょう。

 これらの会話というのは自分の意見を言い、相手の意見とたたかわせるということよりも、自分が面白いと感じたことを確認しているに過ぎず、あまり生産的ではないように思えます。しかし、これは人間の自尊心(自敬観念という言葉も最近あるようですが)を持たせ精神のバランスをとるためには重要な「作業」だと思います。自分が感じていることを他者も感じているか、感じていてほしいというのは個人にとって非常に大切な要素なのです。

 しかしながら、趣味の多様化によってこういったことを実際の社会で行うことはきわめて難しくなっています。昨日、「セルビア・モンテネグロvsスペイン」を見て、次の日学校や会社で「スペインは決定力不足だったねえ」なんていう会話を出来る人はほとんどいないでしょう(笑)

 これを補ってくれるのが、個人ブログではないかと思います。少し探せば自分と同じ趣味の人のブログはすぐに見つけることができるでしょう。また、自分と同じような考えの人のブログも見つけることが出来るでしょう。初めは他人のブログを見ることで「ああ、僕もそう思ってた」という確認行為ができます。しかし、当然のことながら、自分とそのブログとの間に次第に「ズレ」が生じてきます。すると「確認欲」は満たされなくなっていきます。その時、1 さらに他者のブログを探す 2 自分でブログをはじめて、他者の意見(できれば自分と「確認」してくれる意見)を待つという、次の段階に進んでいくのだと思います。

 僕はこうした観点からブログに対する「需要」は増え続けると思っていますし、同じ理由から「供給」も増え続けると思っています。

 個人ブログの意義を心理的側面から考えてみましたが、いかがでしょうか。

関連リンク

  Blogを書くということ(DECO20さん)